映画の時代 -10-



●映画館の中のアジト

豊来館は基本的に芝居小屋だったことは少し前にふれておいた。 館内の客席は畳敷きで左右に花道があった。客席は時代劇で見るように桟敷になっていて、 花道の上部には2階席があり、映写室は1階にあった。なにしろ 建設されてから時間が経っているので、 館内に入るといつも鼻にツーンとくる古い建物特有のにおいがあったことを覚えている。 豊来館が取り壊され、豊栄映画劇場として生まれ変わったのは、私が中学校に入ってからである。 同じ場所に新しい映画館が建設されたのである。 真新しくなった映画館の建物は一部3階建てだった。 客席は桟敷から椅子にかわり、花道はなくなり、映写室は2階に設置された。 3階には、多目的に使えるホールが作られた。

映画館に私以上に入り浸っていたのは、実はすぐ上の兄Sだった。
Sは3階に自分のアジトを作り、遊びの拠点にしていた。 結構自由奔放に遊んでいた。どうしてそんなことが出来たんだろう。 改めて考えると不思議な気がする。 我が家は大家族だった、にもかかわらず住居は狭かった。 独立した子供部屋など望む べくもなかった。 今思えば日本のどこにでもある家庭の図で有ったろう。 都会で は、4畳半一間に家族が住んでいることは珍しいことではなかった。 しかし映画館は広いのでスペースのゆとりが十分にある。 3階のホールは特別なイベントの時以外は使っていなかった。 そんな事情が背景にあってか、父はSの行為についてはあえて咎めず、黙認していた。遊ぶといっても、人に迷惑をかけるようなことはしていないから許されていたのだろう。

Sは手塚治虫の漫画が好きで、小学生のころから暇さえあれば絵を描いていた。 手塚治虫を師と仰ぎ、描き上げた作品をかなり頻繁に師の元へ送っていた。 Sはこの映画館のアジトにこもり、いつしか自分の方向性を決定し、世に出る準備をしていたのである。
  「先生にファンレターや作品を送り続けていたら、必ず漫画で返事をいただいて・・・ 子供心に夢がいっぱい膨らんでいた。」と本人の弁。
あの頃の年賀状や書中見舞い状はSの宝物になっている。そんな交流の後、手塚先生から電報をいただいた。 そして、高校を卒業式の翌日、家を飛び出すように上京した。目指すは憧れの師・手塚先生の元へ・・・。 少年時代からSの画力は、 手塚治虫から認められていた、と言っても良いだろう。 石森章太郎らと机を並べアシスタント経験を数ヶ月したある日、 たまたま東映動画からアニメ「ボクの孫悟空」の仕事が入り、お鉢が回って、 先生の代理を務めることになる。 Sの技量がみとめられたことから東映動画へ移籍。 キャラクターから主題歌まで手がけたオリジナル作品「狼少年ケン」に始まって、「ガリバーの宇宙旅行」 「ねずみの嫁入り」「わんぱく王子の大蛇退治」など続々制作。
若くしてすでに“高額所得者”入りするほどの超売れっ子ぶりとなる。  と、ここまで書けばアニメファンにはおわかりになるだろう。

父も母も子供の教育については、子供の自主性を尊重するというスタンスだった。 上から強く押さえつけることはしなかった。 仕事に追いかけられ7人もの子供の全員に目が届かない、 というのが真相だったような気がする。 父も母も劇場から家に帰ってくるのは、いつも遅かった。 映画が終わって後片付けがすんでからである。10時とか、 日によっては夜中の12時になることもあった。 上の子が下の子の面倒を見る、という形が自然にできていった。 しかし、親に甘えたい時に甘えられないという寂しさが一人一人に残ったようだ。


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