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手塚治虫の足あと

   
なぜ手塚治虫なの?


  手塚治虫の
業績と評価について



ここでは、新聞、雑誌、本において、
これまで掲載された記事から抜粋、
手塚治虫の業績と評価についての
コメントをまとめてみました。


手塚治虫は、小学生の敬慕する
教師のような存在である。
子供にとっては、彼は何でも知っており
子供の可能性を知っているゆえに、やさしく
時にはレベルを下げて、一緒にふざけてくれ
しかし、人間尊厳に抵触した時は、厳しくたしなめ
つまり、神にも近い存在なのだ。
呉 智英「手塚治虫正統記」別冊宝島13 マンガ論争より


手塚マンガの枠組みは、私の無意識である。
ぼくの仕事は、まさに身分の無意識の分析を
おこなってきた、ということになる。
夏目房之助「手塚治虫はどこにいる」より


手塚治虫は戦後、日本のマンガに革命をおこしたことで
永久に記録されるだろう。
「手塚治虫漫画40年」秋田書店 昭和50年発刊


人間の善と悪をアトムやレオと人間の対立で
描いてきた手法は、作品の全体の流れ、従来の
良いこ子のための勧善懲悪を一掃した功績は大きい。
寺光忠男「世伝・昭和漫画史。平成元年毎日新聞


手塚治虫の他に、戦後文化の象徴として
表現した例は他にもある。しかし、彼の業績そのものが、
昭和、特に戦後史の文化の象徴だった。
呉 智英「SPA」平成元年2月号


手塚さんは、文字の文化から“マンガ”をはじめとする、
イメージの文化への転換期を成し遂げてしまった。
という意味で、日本の知的文化を戦前のものとは
決定的に違うものに変質させた。
山口昌男 朝日新聞 平成元年2月10日夕刊


私は常に彼を、戦後日本で最も重要な役割を
果たした人物の一人だ、と確信していた。
関川夏央「知識的大衆諸君これがマンガだ」文芸春秋 平成3年



手塚マンガの「文体」

手塚マンガの「文体」がどのように個々のマンガ家に影響を及ぼしたかについては、各マンガ家ごとに「文体」のどの要素がどの程度真似られているか個別に検討されなければいけない。現代マンガ史の中で昭和20年から30年の検証がとりわけ重視されるべきなのは、そのためである。さて、手塚治虫の出現による「マンガ革命」は方法論的革新に尽きるのではない。手塚治虫は特別な存在であった、ただひとりのマンガ家であった。なぜかを具体的に二点を指摘しておこう。

●その1
それまで高等小学生を読者の対象としていた「児童漫画」を、より年齢層の高い少年たちにも読むに耐える「少年マンガ」にまで広げたというマンガの言語の革新である。元々、手塚治虫がデビュー前に描いた習作群は「漫画に非ず、小説に非ず」という自負の下に「少年・手塚治虫」から、同時代の少年たちに向けた今までにない表現メディアであることをその特徴としていた。(旧制)中学生である少年・手塚治虫が人生について、世界について、宇宙についての理念を物語の形式で伝達しようととして、ごく自然に、読者対象として「少年」を発生させたといってよかろう。マンガ読者における「少年」、これもまた、方法の新しさとともに手塚治虫の出現なくして有り得なかったものと考えられる。

●その2
手塚治虫が特別な存在であったもう一つの理由は、これまた、初期B6に関連することなのだが、マンガ読者のありかたの問題である。読まれ方の違いと言ってもいい。初期B6がどれほど売れたか分からないが、内容が高度になるにつれ、多分、売れ行きは鈍くなり、作品が読者を選んでいったものと思われる。手塚治虫はひどく飛びぬけて孤立していて、それはB6赤本の時から目立っており、手塚B6の読者は、一般読者と多少異なっていたということだ。つまり、手塚治虫という名前で、読者が多かったのである。昨今ではあたりまえのことだが、当時としては、全く新しい形の読者であった。マニアックなファンが付いていたのだ。熱狂的なファンと、ややニュアンスの違うマニアックなファン----------
手塚治虫のB6赤本群は、マンガが読者におけるマニアの誕生の先駆けである。
榊原英城「手塚治虫・覚書」より(1992年 近代文芸社)


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