映画の時代 -9-



●私の家族は大家族

物 心ついた時から、父は豊来館を経営していた。
その当時、我が家は文字どおりの大家族だった。なんと、 12人が同じ屋根の下にひしめいて暮らしていた時代がある。私の兄弟は7人。男女比の構成は上4人が男、 下3人が女の解り易い構成となっていて、しかも、ほぼ規則正しく2歳違いとなっている。 両親と祖母、叔父、叔母を加えて12人だ。
その外にOさん夫婦が2階に下宿していた。 二人は豊来館の従業員として、父の下で働いていた。 Oさんは若い頃、旅役者をしていたらしい。 Oさんの部屋に行くと芝居で使うカツラがいっぱいあった。 奥さんは俗に言う髪結いさんである。 働き者の夫婦だった。Oさん夫婦を含めると、 なんと14人ということになる。

豊来館には、父を中心に、何だかんだと一家総出で関わっていた。 浪曲や芝居のいわゆる実演がある日はもう大変。演者や役者に食べてもらう食事を、 我が家で作っていた。
父は7年前に胃がんのため他界した。「映画の時代」を書き出してから、 父が他界する前に、聞いておくべきことが山ほどあったことに今更ながら気付かされている。

生前の父は体付きはガッチリしていたが、どちらかと言えば小男の部類に入るだろう。戦争に行っていないのは、 どうやらその体格に原因があったようだ。兵役の甲種合格の基準は5尺3寸だったと聞く。 風貌としては、寺尾 聡の父で劇団民劇の重鎮だった 宇野重吉という俳優に似ていると一時思っていたことがある。 酒は全くの下戸。父は一時、町会議員を勤めていた。 たまに酒の席に出席したあとなどは、家に帰るなりすぐ横になり、 気持ちわるそうにしていた父の姿が思い出される。 酒はダメだったが、タバコは好きだった。胃の手術で入院するまでタバコは絶やさず吸っていた。

私は父から強くしかられた記憶がない。子供の時に、遊んでもらった記憶もない。そう考えるとチョット 寂しいが、身内より他の人には結構面倒見の良い人だったのではと他界してから見直している。 派手なところが無く、一見風采の上がらない父だったが、家には毎日いろいろな客が訪れてきた。 客観的に考えてみれば、交友関係が広く、 いろいろな人から頼りにされてきた父の一面として見ることもできる。
しかし、 「貧乏人の子沢山」「貧乏暇なし」という言葉があるように、 我が家が裕福だった、と実感できる時代は私の記憶にない。 高校時代はこの大家族が鬱陶しかった。この大家族から早く抜け出したかった。


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