映画の時代 -8-


新潟市の古町商店街にあった映画館
1958年(昭和33年)4月撮影

●スターが輝いていた

1955年(昭和30年)保守合同により自民党が誕生する。保守対革新に基づく政治の時代に突入 していった。これが、いわゆる55年体制の始まりである。戦後10年、家庭電化時代が始まり、 神武景気が到来する。この年に新潟大火が起き、1,126戸焼失、1200世帯が罹災している。 葛塚町から自転車を走らせ、新潟の焼け爛れた街の惨状を見て回った記憶がある。 当時私は中学2年生だった。

1956年(昭和31年)石原慎太郎が書いた芥川賞受賞作品「太陽の季節」が大センセー ション を巻き起こし、“太陽族”“慎太郎刈り”がその年の流行語となる。日活で 映画化された「太陽の季節」も大ヒットし、この映画でチョイ役でデビュー した石原裕次郎は、 一躍、日活映画のドル箱スターに躍り出る。その後、裕 次郎が出演する映画はことごとく ヒットし、裕次郎が歌った映画の主題歌と 共に若者のハートをとらえ、入場者の記録を塗り替えていく。 裕次郎はこれ までいなかったタイプのスターであり、 若者に大きな影響を与え続ける大ス ターへの道を突き進むことになる。

1957年(昭和32年)日本初のシネマスコープは東映時代劇から始まった。大友 柳太郎・長谷川裕見子が主演した「鳳城の花嫁」が封切られ 大型画面時代の口火 を切る。シネマスコープは、映画という娯楽に新たに「迫力」という魅力を与えた。 その映画のキャッチフレーズ「画面3倍、興味100倍。日本初の色彩シネマスコープ作品」である。
石原裕次郎が主演した「嵐を呼ぶ男」が封切られた。あの
♪〜おいらはドラマー〜やくざな ドラマー〜♪
という、ケンカのセリフ入りの軽快な主題歌がこれまた大ヒット。 映画ブームは新たなる観客を獲得していく。

昭和30年代は、文字通りスターが輝いていた時代であり。 そして、スターは庶民の憧れの対象そのものであった。
全国の津々裏々、どこの町にでもあった映画館は、 一つ屋根の下、スクリーンに繰り広げられる音と映像によって、 喜び、悲しみ、怒り、 そして楽しさを共有することができる庶民の娯楽の場所であり、 巷の文化の発信基地でもあった。


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