映画の時代 -7-


1958年(昭和33年)豊栄映画劇場
開館3周年記念として上映された映画の看板

●日本映画の青春時代

1953年(昭和28年)に五社協定が結ばれた。協定そのものは自社のスター俳優の、他社への流失を防ぐことに力点をおいたもので、業界自体の閉鎖性を感じるものではあるが、 見方を変れば、日活、東映、東宝、松竹、大映という 5つの映画会社が元気があり、興行収益が得られる面白い映画作りに、 各社が凌ぎを削っていた時代を象徴していたことの 一つの証しとして捉えることが出来る。
 なお、専属契約を結んでいた俳優達は他社の映画に全く出演する事ができないわけではなかった。 作品の規模、性質によりどうしても自社のそれにはまる俳優がいない場合、会社同士の話し合いによりそれが強化されることもあった。 但し エンドロールに所属会社名が付されるのは言うまでもない。 特に大物俳優の場合”友情出演”とか”特別出演”とか冠されることもあった。

 昭和30年代は日本映画のまさに青春時代。 映画を作る側も、観る側も気合が入っていた。時代劇の牙城、東映の黄金時代だった。 片岡千恵蔵、嵐寛寿郎、市川右太衛門、 大友柳太郎、そして、 中村錦之助、東千代之介、大川橋蔵とスターが誕生していった。 どのスターも個性があり、いわゆる“当たり役”というもの を持っていた。
映画は、主役だけでは作れない。脇役、敵役(かたきやく)が主役を引き立て映画をより面白くするのだが、時に主役を喰うこともある。 あとで言及する石原裕次郎がその典型だ。
東映の時代劇は、娯楽に飢えていた庶民に圧倒的に支持された。あちこちの路地裏や空き地に子供たちのチャンバラごっこをしているシーンが見られた。 おもちゃを買えない者は、木の枝を切ってきて 小刀で削り、格好の良い剣を競って作り、小学生も中学生も夢中になってチャンバラごっこをやっていた。 今は無き、ガキ大将が存在していた。
彼らによりそれ以前から受け継がれた少年世界の秩序が形成され、その世界での序列によりつきあいの方法や遊びの仕方(ルール)を学び、やがて大人になっても困らない学習をしていたともいえるだろう。

 中学校の時、数学の教師に阿部先生というとってもユニークな先生がおられた。阿部先生自身が、映画「鞍馬天狗」のファンであり、 主演のアラカンの大ファンだった。阿部先生は肩からそっくり右手がなかったので、いわば身体障害者ということになる。そのハンディをみじんも感じさせないほど、 身のこなしが機敏だった。 数学の時間が始まると颯爽と教室に入ってくるなり、 まず鞍馬天狗の話から入る。ここで生徒の気持ちをとらえてしまう。 黒板の板書は左手で書く。それが又速い。黒板に数式などのほか、絵を良く描いた。
左手でさらさらっと描く。それが実に上手く格好いいのだ。
それだけでも生徒は黒板に目が釘付けになる。 数学の練習問題をよくやらされたが、タイトルがいつも「天狗道場」なのだ。毎回絵が入っていてどこかに 工夫が凝らされている。
当時、謄写版の時代だったことを考えると、これはすごい事だと今更ながら思う。 生徒には抜群に人気があった。数学が嫌いだった私も、阿部先生の授業は好きだった。
 この先生のお陰で、数学がそう嫌いでもなくなった。 得てしてこんなもんだと思う。 教師の好き嫌いにより授業に興味を持ち、それがモチーフになり、学校が好きになる。 教育の原点とは、案外こんなところに有るのかとも思う。  


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