映画の時代 -50-



●40年後の新宿歌舞伎町

1961年に映画看板の製作会社に入り、看板の修行が始まった。
あれから丁度40年の歳月が流れている。
今年の夏休みに新宿・歌舞伎町に行き、懐かしい映画街を徘徊してきた。 歌舞伎町の映画館周りの映画看板は、大きく派手だった昔と比べて、総体的に何とも小ぶりになっていた。 劇場まわりの看板は手描き看板だったが、看板を見ても、あのワクワクするような感覚は沸いてこない。
日本の映画も上映されていたものの、その量においては、完全にアメリカ映画に圧倒されていた。 かつて修行した映画看板の会社にも、足を伸ばして行ってみた。そこは連れ込み旅館街の中にあったが、 周辺の景観がすっかりかわり、ビルが林立していた。歓楽街には違いなはないが、近代的な姿に変貌をとげていた。 私は、初めてこの街に足を踏み入れた当時を思い出しながら、40年という時の重みをかみしめながら歩いた。
私は浦島太郎になったように錯覚を覚えながら歩いた。 その映画看板の会社に行ったら、昔の仲間に会えるだろうか? その時、何から話をしようか…などと考えながら、 何とかかつてあった場所にたどり着いた。 しかし、どこかに引っ越したのか、残念ながらついに見つけることができなかった。

新宿東口に行ってみた。人、人、人の波には圧倒される。相変わらず喧騒と猥雑な新宿のエネルギーを感じさせてくれる。
新宿駅から山手線の線路にそって、大ガードまでの間に、10館を超える映画館が、上映中の映画を知らせる 大きい映画看板が、競うように展示されているスペースがある。 このスペースは昔のままに残っていた。アルタのビルからもよく見える。
ここに立てば新宿で上映している主な映画が即座に一望できるのだ。
この展示スペースでは、驚いたことに手描きの看板は2〜3点のみで、その他の映画看板はプリントされたものだった。 映画看板の場合、プリントされているものは、確かに綺麗ではあるが何かが足りない。それは"味”と言ってもいいだろう。 私は、やはり手描きの看板の方が好きだ。
その看板群の展示スペースの脇に、西口に抜けられる小さなトンネルがあった。 西口には、小田急百貨店・京王デパートや都庁を中心として高層ビル街がある、 このトンネルも昔のまま残っていたのだ。私にとってそれは奇跡的にさえ思えた。

トンネルをくぐり抜けると、すぐに安くて汚い、戦後が終わっていないと思わせる食堂街が、なんと昔のまま残っていた。 近代的高層ビルが林立する副都心の脇に、この食堂街があることに、私は正直驚いた、と共に嬉しさがこみ上げてきた。 私の新宿での修行時代、お金がない時にこの食堂街によくきて飯を食べたものだ。とにかく安かった。遠く故郷を離れて いた者にとっては、ここに来ればお袋の味が味わうことができた。 トンネルと共にこの懐かしい食堂街も、昔のまま残っていたのだ。 火事のため食堂街の規模は、昔の半分くらいになっているという話だったが、 黒くすすけた梁に,真昼から裸電球が点灯している。路地を挟んで、両側に小さい食堂がひしめき合っている。 その佇まいは40年前の昔のままだった。狭い通路を歩いていると、両側の店から、焼肉・焼き魚・ラーメン・カレーライスなど、 いろいろな匂いがしてきて、食欲を誘う。 私は小さい食堂に入り、丸椅子に座った。焼き魚定食とポテトサラダを注文した。 元気の良い食堂のおばさんが、芋の煮っ転がしのおかずをサービスしてくれた。お袋の味がした。
飯を食べながら、タイムトンネルをくぐリ抜けて、40年前の新宿に戻ってきたような、 何とも不思議な感覚に襲われた。懐かしさのあまり、熱いものがこみ上げてきた。 40年という時の流れと、その重みを噛み締めながら、その食堂で昼の飯を食べた。 お腹を満たして薄暗い食堂街を出た。真夏の日差しがまぶしかった。 見上げたら副都心のビルの群れが、無機質に聳え立っていた。



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