映画の時代 -5-



開館を祝う花輪が重なるようにおかれた豊栄映画劇場の入口周辺


●「二十四の瞳」と映写室

1954年(昭和29年)に老朽化が著しい豊来館は取り壊され、同じ敷地に新しい映画館が建設された。 「豊栄映画劇場」の誕生である。 この年、相撲の元小結の力道山がプロレスブームを作り、パチンコが大流行した。 マリリン・モンローが夫君メジャーリーガー、ジョー・ディマジオとの 新婚旅行の途上来日している。また、当時の子供たちをワクワクさせる作品を次々と描いて、 全国の子供たちに漫画の面白さを教えてくれた 手塚治虫が、画家の部で年間所得トップになった年でもある。いわゆるトキワ荘時代である。 邦画では黒沢 明監督の「七人の侍」、日本初のSF特撮映画「ゴジラ」、 そして木下恵介監督「二十四の瞳」という作品が作られ、全国の映画館で封切りされた。

さてこの年に、豊栄映画劇場でも「二十四の瞳」が上映された。何故かその時の事を鮮明に憶えている。
この作品は、元教師で作家の壺井 栄原作の小説の映画化で、四国・小豆島の岬の分教場が舞台で女教師と 12人小学生を主人公にした高峰秀子主演のこの映画は、 文部省認定の作品だった。これは、その頃まだ権威があったものだ。
私が中学1年生(13歳)の夏だった。私が通っていた中学校で「二十四の瞳」を生徒全員で鑑賞しよう、 ということになり、先生が映画館まで生徒を引率してくることになったのだ。 本来ならば自分も、他の生徒と一緒に映画館に入り、みんなと一緒に映画を鑑賞すべきなのに、 私は別行動をとっていた。
といっても別にサボっていたワケではない。
実は、映画館の映写室での手伝いとして、 その日のローテーションに組み込まれていて、担任のお許しを得ての行動ではあった。 当日、先生に引率されて生徒たちが、キャーキャーと黄色い声をあげながら館内に入ってくる。 その様子を二階の映写室からチョット複雑な思いで見ている自分がいた。

映画が終わった。みんな感動している。みんなの目が赤い。涙を流している者もいた。 ところが自分もこの映画を見ているのに彼らほど感動していないのだ。 このギャップはかなりショックだった。寂しく悔しかった。 と同時に誇らしげな心が有ったことも否めない。不思議な感情が同居していた。
観客として観るのと、映写室の覗き窓から観るのとでは違う。 いくら感動的な名作でも、映写室で作業をやりながら見ていても感動できないことを、 私はこの時知った。忙しい作業に没頭する中、 知らずの内に半ばプロ意識が育っていたのだろうと今しにして思うことがある。


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