映画の時代 -48-



●看板にコンピュータの波

私の郷里・新潟市では、1960年に25館の映画館があった。1964年の東京オリンピックの年は24館だったが、オリンピック開催から僅か10年間で激減していく。1974年には13館、なんとピーク時から半減してしまうのである。正確な数字をつかんでいるわけではないが、全国的にも映画人口の激減により、映画館が廃館に追い込まれていく。経営に行き詰まり、映画を製作してきた映画会社の倒産が相次ぐ。
映画作りに情熱を注ぎ、優れたらた作品を世に出してきた、名匠・巨匠・鬼才…といわれた名物監督も、相次ぎ逝ってしまった。

そして、20世紀の巷の文化を世に送り続けてきた日本の映画界が、かつての活力を失い、パワーダウンしていった。その原因は、映画以外の娯楽が出現していったことに起因する。中でも、各家庭に急激な勢いで普及していった、テレビの影響を上げなければならない。テレビの急激な普及により、かつての娯楽の王様だった映画が、その地位が揺らぎ、存在感が低下していった。60年代はテレビの、そして80年代はビデオの普及で、観客数がどんどん減っていく。過去の名作が、お茶の間で見られるビデオの定着は、映画館を直撃した。その一方、現在の映画製作が、テレビの放送権料と、ビデオ化権料で支えられているのだから、何とも皮肉な話だ。
ともあれ、映画館の激減は、映画看板自体の激減を意味し、多くの看板職人の居場所がなくなることを意味する。一方、映画看板の製作現場でも技術革新による合理化が起こってくる。

泥根の具に代わって、ネオカラーというものが登場する。それは、東京オリンピックが開かれた1964年、私が映画看板の会社をやめる頃からではないだろうか。ネオカラーは水性塗料で、水で薄めて使う。泥絵の具のように、顔料の粉を練る必要がない。工場で練りあげられた塗料として、主要な色が缶につめられているので、すぐ使うことができる。あの気難しがりやの、膠のお世話にならなくて良い塗料が、急激に普及していった。
それと同時に。泥絵の具は膠と共に需要は激減していく。その極めて日本的な画材は、かろうじて日本画の世界で生き延びている。

大工にとって、かなづちや鋸はなくてはならない道具である。看板の職人にとっては筆と絵の具は欠かせない道具である。これがなければ仕事にならない。というのは、どうやら今は昔の話になってしまったようだ。
最近は、筆や絵の具がない看板屋さんが登場してきた。看板業界にもコンピュータの進出が目覚しく、いわゆる手描き職人に代わってパソコン(パーソナル・コンピュータ)のオペレーターが幅を利かせている。
私が映画看板の修行時代に入ったころ、正直、この仕事はコンピュータが入り込めない分野の仕事だと信じて疑わなかった。残念ではあるが、それは、私の思い込みだった、ということを認めざるを得ない。



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