映画の時代 -38-



●職人言葉あれこれ

映画の看板の会社に入りかけの頃、いささか戸惑ったことがある。前評判の高い映画の看板には、しばしば 映画のタイトルを切り抜き文字を取り付けたものだ。文字の存在感を主張し、遠くからでもくっきりと 視認できる。看板自体に一種の迫力が生まれる。切り抜き文字は3〜5センチの厚さの発泡スチロールの板に カラーの塩ビ板を貼ったボードを、文字の形に切り抜いた後、看板の板面に木工用ボンドで貼り付け、固定する。
ある日、脚立の上で製作部のベテラン大友が切り抜き文字の取り付け作業をしていた。 確か、映画のタイトルは小津安二郎監督の松竹映画「秋刀魚の味」だったと思う。 その下に通りがかった私に向かって、 「おーい、ロクを見てくれ!」と大友さんが叫んでいる。
「………??」なんのこっちゃ? 言われた私はわけがわからず、聞きかえそうとしたら、すかさず製作部の人が看板の後ろに立って、いま取り付けようとしている 文字を見ながら、右手を横にして、上げたり下げたりしている。大友さんは後ろ向きになって、そのしぐさを見つつ 文字を微妙に動かしている。最後にOKサインをもらった大友さんは文字を貼り付け固定した。
その光景を見ながら「ロクを見て」というのは、「水平を見て」という意味だということがわかった。 文字を取り付けている人には、自分が取り付けようとしている文字が水平になっているかどうかは、 正しくはわからない。どんなベテランでも微妙に狂いが生じる。遠くから離れて見ることで水平の狂いをチェックできる。 ということもわかった。「ロクを見て」という言葉は現場で、日常使われている常套語だったのだ。

ところで「ロク」とは何だろうと、辞書を開いて調べてみた。「陸」と書いてロクと読む。 水平であって正しい状態、平らな屋根、満足すべきできばえ、とある。 ということは、職人の世界では正しく日本語を使っていた、ということになる。 もっとも、現在では多分に業界特有の「隠語」になっていることも否めない。 「ロクでもない」「ロクな話もできない」も、この「陸」という文字からきている、といこともわかった。 余談になるが、建築用語で屋根の形状を表す言葉で「切妻」「寄棟」などと共に「陸屋根」という言葉がある。 いわゆるビルの屋根のように、平らな屋根の形をを言う。 これを「リクヤネ」と言う人もいるが、正しくは「ロクヤネ」と言うべきなのだろう。

「ウマを持ってきてくれ」という言葉もよく使われていた。看板を台座の上に水平に乗せて作業をしてり、 台座に足場の板を乗せ、そこに上がって作業もできる。「ウマ」とはその台座のことだったのだ。 垂木を組み合わせ作られている簡単なもので、折りたたみができるので、場所をとらない便利な台座として、 制作室では欠かせない道具だった。 なぜ、この台座のことを「ウマ」というのだろう。そこで、 「馬」という文字を辞書で調べてみた。

@耕作・運搬・乗用にする重要な家畜。体が大きく、首・顔が長くて、
たてがみがある。
A下部が開いた4本の足の踏み台。脚立(きゃたつ)。

@は子供でもわかる。しかし、Aの意味で使われることは日常ではあまりないと思うが、 看板屋の職人の間では、ロクと同じくウマも常套語として使われていた、 「ウマが合う」は日常会話でしばしば使われる言葉だが、相手と気持ちがしっくりあう、という意味で、 「馬」という文字からきている、ということもわかった。

「ウマ」に対して「ネコ」というのがあった。その当時の建設現場で使っていた、土や砂を運ぶ一輪車のことである。 これは「猫車」からきている。今では機械化が進み、日本では建築現場であまり使われなくなったが、中国では未だに 人海戦術で工事を施工していると聞いているので、この「ネコ」が使われていると思われる。ところで、 機械を使わず、人力で動かしたり、運んだりすることを「テッパでやる」という言い方をしていた。 町の看板屋さんにとって、穴を掘る仕事はつき物だ。野立て看板の取り付けには、まず取り付け現場に行って 最初に穴を掘る仕事から始める。スコップやつるはしをもって穴を掘る。「あの現場はテッパで掘った」など言って使う。 語源はどこから来ているのだろう。職人に聞いてもわからない。昔からわからないまま使われてきたようだ。

さて、看板に色を塗ったり、文字を書いたりする場合、絵の具に水や膠を入れて、丁度描きやすい濃度に調整する必要がある。 その時の絵の具の濃さを表す言葉として「シャブイ」という言葉も使われていた。「濃い」に対して 「薄い」という意味である。下地の絵の具がシャブイまま塗るととムラになる。文字を書くための絵の具がシャブイと 文字を書いてもうまく色がのらない。下地に塗った絵の具には定着剤としての膠が使われているため、 このニカワ質に、文字の絵の具がはじかれてしまうのだ。 絵の具が濃すぎると、文字が描きづらい、うまく描けない。
絵の具の丁度良い描きやすい濃度はというのは、 職人の経験による勘にたよるしかない。この「シャブイ」という言葉の語源はわからないが、 なんとなく語感の響きから理解できる言葉ではある。


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