映画の時代 -37-


(C) illustration by MOON

●尺ざしと大型コンパス

制作部にも作画部のように厳然と序列があった。すなわち、この会社のトップクラスの技術をもったベテランの職人が、 一流の映画館の看板を担当する。一流の映画看板は大きい絵が入った看板ばかりで、必然的に看板のサイズも大きい。 このクラスの看板は、この看板屋としての、まさに看板でもあるわけで、その出来栄えの見事さには、 見る人誰しもが「さすが…」と、うならせるものがある。 その次のクラスは二流の映画館を担当する。看板のサイズは小ぶりになる。 制作部に入ったばかりの新入りは、三流の映画館を担当させられる。または 絵が入らない、街角などに取り付けられる看板を描かせてもらうことになる。 新入りの製作部のメンバーにとっては、腕を磨く言わば修行の場となる。

制作部の人たちが使う道具として、刷毛と共に、大小さまざまな筆である。 刷毛は白地の看板の下地を塗るために使う。看板が大きい場合はタイトルの文字を 刷毛で塗る。筆は平筆と面相筆があり大きい文字は平筆を使い、5センチ以下の小さい文字は 面相筆を使って文字を書く。
刷毛や筆の他に、尺ざしといわれる 竹製の三尺ものさしとコンパスがある。コンパスといっても、木で作られていて、折り曲げた状態で50センチほどの大型のものである。 大工さんの世界で言えば、尺ざしは曲尺(かねじゃく)であり、コンパスは墨つぼに相当する。 メートル法という野暮な法律が施行されてから、尺ざしは急に品薄になり、 1メートルのものさしにとってかわられていった。尺さしを作るのも、売るのも禁止されてしまったのだ。
この法律は、結果的に、日本人が誇るべき日本の文化を、自らの手で遠ざけ、 文化の次世代への継承を困難にした。私は今でもそう思う。
制作部の職人は誰しもメートルのものさしより、 尺ざしの方が好きだった。かくして、品薄な尺ざしが職人の間では珍重されていった。
事実、長さが3尺の尺ざしの方が、扱いやすく、目盛りのピッチが丁度良かった。 細かすぎる1ミリ刻みのメートルさしより、看板屋の職人にとっては断然使いやすかった。

さて、なぜ木製のコンパスが必要だったのかについて触れておかなければいけない。木製のコンパスは 非常に便利な道具で、作業中の制作室をのぞいてみると、必ず誰かがこのコンパスを使っている シーンを目撃できた。それほどこの木製の大型コンパスは多用されていた。
コンパスは円を描く道具なのだが、看板の製作現場では円を描くだけではない。 通常文字を筆で描く前に、割り付けをする。割り付けとは、文字の配置とサイズを鉛筆で下書きをすることだが、 この文字の割り付けをするために、コンパスは欠かせない道具として使っていた。 コンパスを巧みに使うことによって、実に簡単にしかも手際よく文字の割付をすることができるのだ。 いささか専門的な話になって恐縮だが、概ねこんな感じで使っていた。

例えば看板の板面に、横に映画のタイトルが入り、その上に映画のキャッチコピーが入るとしよう。 その場合の文字の割付は、ざっとこんな手順で進めていく。 まず、看板に描くべき文字の大きさ(高さ)を決め、4箇所に鉛筆でしるしをつけておく。 そして、4本の平行線を引くことになる。 この平行線をひく時にコンパスを使う。
コンパスの足を一定の幅に設定する。一方の足の先端を 看板の上辺におき、もう一方の鉛筆が付いた先端を板面のにしるしたポイントにおく。 その後、看板の上辺をなぞりながら横に移動することにより、板面に きれいな水平線を鉛筆で描くとができるのだ。描く文字が大きい場合は歩きながら線を引いていく。 こんな要領ででコンパスの幅を変えることにより、何本でも水平線を簡単に引くことができる。 次にキャッチフレーズの文字数が、例えば21文字あったとしよう。 文字を入れるべき左右の範囲を決めておく。その範囲の中で21文字を等分にする。 この時コンパスを使って割っていく。その作業が終わった段階で、文字の上下左右の大きさが確定する。 横組みの文字も、縦組みの文字も、文字の割付はすべてコンパスとさしを使って作業していくのだ。 コンパスはアナログ時代における、看板職人の欠かせない道具だったのである。

刷毛や筆は、職人にとって武士の刀と同じである。大工さんが自分のノミやカンナを大事にしたように、 大切に使ったものだ。使い慣れた筆は他に変えられない位に愛着が沸いてくる。しかし筆も使い込んで くるとやはり消耗していく。 二ヶ月に一度くらいのペースで筆屋さんが訪れ、制作室で店開きしてくれた。職人に筆を開陳してみてもらい、 販売する。職人たちは筆屋を囲むようにして群がり、欲しい筆を買う。職人の道具を購入するのは 自分もちだ。使い古した筆には愛着があるので、なかなか捨てがたく、かくして各自の筆箱には 無数の筆が同居することになる。


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