映画の時代 -34-



●真夜中の決闘

作画部の尾高さんと、製作部の大川さんはお互いに気が合ういい仲間だった。 俗に「馬が合う」という言葉があるが、まさにそれだった。新宿の酒場に よく飲みに連れていってもらった。行く先は決まって安酒場だった。 彼らの会話は映画から始まって、文学論、芸術論、作家論まで実に幅広く、談論風発、 縦横無尽に話が弾んでいく。 看板の職人同士の会話をはるかに超えるものだった。 彼らの話には興味をそそられるものがあったが、その頃の私は、彼らの話に加わるほどには知識が乏しく、 もっぱら聞き役だった。ゲーテ、ドストエフキー、ニーチェ、 サルトル、カフカ、ヘルマン・ヘッセなどの文学者や、聞いたことがない監督の名前が ぽんぽんと出てくる。本をあまり読んでいない私にとって、彼らの会話は 刺激的で新鮮だった。この人たちはすごい、と思った。 二人とも私に、本を読むことを勧めてくれた。

みんなが寝静まったある真夜中のことである。 工場の灯りはすべて消され、3階の寮のベッドには、業務部の若者たちが仕事に疲れた体を休め、 それぞれの夢を見ていた。午前3時を回っていた頃だっただろうか、 私は下の制作室のドアが開く音に起こされた。 「一体誰だろう?、こんな夜中に…」、と不審に思って 耳をそばだてていると、どうも二人の男が1階の制作室に入ってきたようだ。
下の方から、二人の男の高ぶった声が聞こえてくる。 そのうちに、殴り合いの喧嘩をはじめたようだ。壁にぶつかる音、 怒鳴りあう声が聞こえてくる。ここの従業員には違いないだろうが、一体誰なんだろう? 
ただならない様子に、寮の部屋の何人かが眠りを断ち切られて目を覚ました。私は神野君らと共に、 ベッドを飛び出し、3階の寮から2階の作画室に降りて、1階の制作室の様子を見に行った。 寝ぼけ眼で下の様子を見たら、何と作画部の尾高さんと、もう一人は製作部の大川さんではないか。 自分の目を疑ったが、あの仲のよい二人が「なにー、この野郎!」と、怒鳴り声を 張り上げて喧嘩をしているではないか。二人で修羅場を演じている。ことの成り行きを見ていたが、 口論がエスカレートして、殴り合いの喧嘩となり、ますます激しくなってきた。そのうち、 椅子や木材をもってやり合っているので、「これは大変なことになってきた。何とか止めにはいらねば」 と思い、私は神野君と階段を降りて二人の中に入り、体を張って両者を引き離す。 大川さんのメガネはどこかに吹っ飛んでいている。顔には青たんが出来ている。 尾高さんの顔にも血がにじみ、シャツが汚れボロボロに破れていた。喧嘩はなんとか収まった。

普段はおとなしく、どちらかと言えば理性的で、暴力とは無縁な二人である。 酒が入ると人間の本質が出てしまう。酒は会話の潤滑油ともなるが、時には理性を どこかに吹き飛ばしてしまうこともある。 喧嘩のの原因を聞きそびれてしまった。あんなに仲の良い二人が、 なぜあんなにも激しい殴り合いの喧嘩になったのだろう。そのワケは未だに謎である。
真夜中の格闘劇のいきさつを想像するに、歌舞伎町の安酒場に例によって二人は繰り出した。 二人で酒を飲んで語りあっているうちに、ちょっとした主義主張のすれ違いが起こり、二人の感情が ショートして、ついには発火するに至ったのだろう。
若さゆえ、本音も建前も、駆け引きもな知らないピュアな二人の、紛れもない青春時代の一コマである。 ふたりとも妥協を知らない無類の頑固者だったのだ。 翌日、職場にぼこぼこに腫れ上がった顔で出勤したお二人さん、さすがに なんともバツがわるそうで、二人の距離にぎこちなさがただよっていたが、 いつの間にか元の仲にもどっていた。
二人とも酔っ払っていたとはいえ、男同士があんなにも 激しく、本気になって殴り合いの喧嘩をしているのを見たのは後にも先にもない。


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