映画の時代 -25-



●70ミリ映画と新宿ミラノ座


私が映画看板の会社に入った1961年、 映画興行の低迷は続いていた。 急激に普及しているテレビの影響は、 ジワリジワリと映画界に影を落としいた。 この年に新東宝が倒産し、 負債整理のため旧作529本をテレビ局に売却している。 地方の映画館にとっても、 その影響を回避することはできず、廃館に追い込まれた 映画館は少なくない。
翌年の1962年、 観客動員数6億6200人に急激に減少、 最盛期(1958年)の約半分となっている。 その結果全国の映画館が900館が閉館に追い込まれている。 我がふるさとの映画館も、 その大きな波を避けることができなかった。
同年4月 悲しい知らせが舞い込んできた。「豊栄映画劇場を廃館にすることになった」 という 親父から手紙を受け取って愕然とした。 ふるさとが消えたような寂しさに襲われる。 痛恨の思いがよぎる。 しばらくの間仕事が手につかない日々が続いた。

一方映画界では、 テレビの影響を払拭するかのように、 意欲的なパワー溢れる映画が作られていた。 まずは70ミリ ミュージカル映画 「ウエスト・サイド物語」である。 巨大なスクリーンに繰り広げられるダイナミックな踊りと歌、圧倒的な映像の迫力。 この映画を最初に観たのは、 映画看板の制作会社に入った年の1961年12月だった。 こんな映画は観たことがない。 私は衝撃的な感動をこの映画から受けた。 「ウエスト・サイド物語」 を5回ほど見ている。 同じ年に「アラビアのロレンス」 「北京の55日」「クレオパトラ」と立て続けに制作されている。
翌年の1962年「史上最大の作戦」、 1963年「大脱走」、 1964年「マイフェア・レディ」、 1965年「ドクトル・ジバゴ」と続く。 70ミリ映画はテレビに対抗する一つの回答だったのだろう。
しかし、70ミリ映画の製作には莫大な制作費がかかる。大ヒットしなければ大赤字を抱えてしまう。 というリスクがともなう博打のようなところがある。マリリン・モンローが急死した1962年に 20世紀フォックスが超大作「クレオパトラ」の予算超過で経営不振に陥り、2979万ドルの赤字を抱える。 翌年、社長のクビをかけた「クレオパトラ」は世界公開して大ヒットとなった。 ちなみに、この映画でのエリザベス・テーラーの出演料は史上最高の100万ドルだった。 70ミリ映画は1960年代の映画の時代を象徴するムーブメントだったと言えよう。

さて、70ミリ映画は大型のスクリーンを設置している、 大劇場で上映してこそ真価が発揮できる。 大型映画を上映する映画館の定番と言えば、 新宿においては「新宿ミラノ座」だった。 大概の映画は1週間単位で映画が変わるが、 ミラノ座で上映される映画は、1ヶ月、2ヶ月という長期にわたって上映される ロードショーがほとんどで、 前段であげた70ミリ映画は全て、ミラノ座で上映されている。 ということは、私が勤めていた看板の制作会社で、 それらの映画看板が制作された、 ということになる。 「ウエスト・サイド物語」は大ヒットしたため、 ロングラン公開がさらに延長されたと記憶している。 ミラノ座はスクリーンも、 映画館も、 そして看板も大きい、 というのが売りでもあった。 事実、ロングランで上映するロードショーの場合、 あのミラノ座の大きな建物の壁面全体を覆ってしまう、巨大な看板を掲げるのが恒例となっていた。
長期間掲示される看板は紙に泥絵の具の看板ではもたない。 耐久性のある油性のペンキで、 絵も文字も描かれる。 当然、 絵の描き方も違ってくる。 1間×2間の大きさの看板を、 何十枚という単位の枚数を制作し、 現場で組立てていくことになる。 さて、 ミラノ座の大型看板は一体どんな風にして制作されるのだろう。 次の章では、 制作過程について書いてみよう。



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