映画の時代 -2-


(C) illustration by MOON


●映画館はワンダーランド


物心ついた時、私の周りは映画だらけ。 それもそのはず父が、映画館の館主だったのだ。  ポスター、切符、ビラ、映写機、照明、フィルム、プログラム、売店、機械油、ウェス、工具類etc。  なんでもあった。 映像工場である。  幼心にいきなりワンダーランドに放り込まれた気分で何にでも興味を示した。すべておもちゃになった。  目に映る物に興味があった。特に映写技師には興味を持ったことを覚えている。

  テレビがない頃で、動く絵を操作する技師には少し科学者のイメージを感じたことがある。   いまなら珍しくもないAVルームがそこにあるのだ。しかも巨大スクリーン、大音響スピーカーがある。  そこに人が、多く集まる。一種の文化サロンだった。
  父が経営したいた映画館は新潟市の隣町、葛塚町(現在は豊栄市)にあり「豊来館」といった。 当時、映画が最大の娯楽であり、映画館が唯一の娯楽施設だった。 大歌手の一人で国民的歌手となる三波春夫が若い頃、南条文若という芸名の浪曲師として、 全国に巡業に回っていた時代がある。その当時、 彼が豊来館に講演にきた時の話を祖母から聞いてたことがある。 豊来館は、芝居や浪曲(当時、”実演”と言った)と共に映画も上映するという、 いわゆる芝居小屋だった。Mixture theater(ミクスチュア シアター) とでも言えるか。 
戦争に敗れた日本はどの家も貧しかった。物もなく、娯楽も少なかった。 私が小学3年生だった1950年、黒沢 明が監督した映画「羅生門」がベニス映画祭で 金獅子賞を獲り、翌年、木下恵介監督が「カルメン故郷へ帰る」で日本初の総天然色映画を完成させた。 この頃から、日本の映画が世界から高い評価を受け、映画界全体が俄然活気を帯びてくる。次々と意欲作、 話題作が作られ、地方の映画館にもどんどん上映されるようになってくる。 豊来館も芝居・浪曲より映画中心の興行となっていった。そして個人経営の豊来館は改装され 1954年(昭和29年)豊栄映画劇場として生まれ変わる。形態も株式会社となる。

◆豊栄映画劇場の前身・豊来館の現存写真
◆豊栄映画劇場の開館前後の記録写真


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