映画の時代 -18-



●二十歳の再出発

好きな映画の看板を制作しているこの会社に、私はワクワクする思いを掻き立てられた。 よ〜し。 この会社に就職するぞと意を決して事務所のドアをノックし、就職の面接を受けた。 面接官はこの会社の社長だった。丸顔で大柄な体型、 鳥撃ち帽子を被ったその風貌は一見、土建屋の親父ではないかと思った。 だみ声で話す言葉に凄みさえあった。 「はじめの1年くらいは非常につらいよ。 明日何か作品があったら、 それを持ってもう1回きなさい」と言われた。 翌日スケッチブックを持って再度面接を受け、内定をもらうことが出来た。 嬉しい気持ちがこみ上げてきた。 失意のどん底から、俄然希望が湧いてきた。 3ヶ月は寮に住み込みで、「絵の具の担当」 をしてもらう, ということになった。 給料は安いが、 食事は3食付きで、月 4,000円は魅力だった。 何と 「明日からきてくれ」 と言われた。 急遽引越しを余儀なくされた。

なんとも慌ただしくなったなったものだ。 アパートに帰ってからバタバタと荷造りをし、 面接した日の翌日、 高円寺のアパートを引き上げ、 一緒に暮らしてきいた友人のN君に手伝ってもらい、 この会社に引っ越してきた。 工場の3階が寮になっていたのだ。 寮の一部屋を与えられた。 といっても、 先住の先輩が3人同部屋なので、 4人で1部屋ということになる。 部屋には2段ベットが左右に2台あるだけのシンプルなもので、 言ってみれば寝るスペースがあるだけの部屋だった。 ベッドは木製で、 使い込んだ畳が一枚敷かれていて。 それぞれのベッドには 猫の額ほどの、 荷物をおける空間がある。 右側の上の段が 空いていたので、 ここが私のスペースとなった。 ようやく荷物の整理が終わり、 ほっとして部屋の小さな窓から外を見ると 、連れ込み旅館の屋根や窓があちこちに見える。 3階の寮は、同じ作りの部屋が3部屋あった。 工場の中には食堂があった。 賄いのおばさんが朝・昼・晩の3食の食事を作ってくれるので、 寝ることと食事の心配がないというのは、とってもありがたかった。

引っ越した翌日、 朝礼で従業員全員(30人余)の前で、 新入りとして私は社長から紹介された。 「何もわかりませんが、 よろしくお願いします。」と全員の前で頭を下げて挨拶をした。 時に1961年(昭和36年)11月2日、 私が20歳の時である。
この日から足掛け3年、 映画の看板の仕事をすることになる。 私にとっては職人大学に入学したような修行時代が、 この日から始まったのである。 これまで駄文を書き散らかしてきたが、 実はこのエッセーでは、 映画看板の修行時代を書きたいてみたい、という想いからスタートしたのであった。 ようやくその緒に着くことができた。



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