映画の時代 -17-



●プリント配線から映画看板へ

プリント配線の会社では、連日連夜、配線図の版下を描いていた。 仕事の内容はメーカーからきた青写真(湿式コピー)の図面をトレースして墨入れをする、 という極めて単純な作業である。 すぐ仕事には慣れ、 図面は上手く、 作業も早くこなせるようになっていった。 残業は毎日、徹夜もよくやった。二晩続けての徹夜も何回か体験した。 工場の最初の工程がこのセクションなので、 次の工程に速やか流さなければ納期に 支障をきたすことになる。 3人のスタッフはフル稼動で仕事をこなしたいた。 ゼブラ模様のような、 迷路のような白黒の図面を開けても暮れても描いていた。 眼の酷使が続いた。 入社して1年を経過したころ、 目が赤血走り、 毎日ひどい眼痛が続くようになった。 仕事そのものは嫌いではなかったが、 このままでは自分は駄目になる。 眼の障害から精神的にも 落ち込んでいってしまった。 会社から休みをもらって新潟に帰り眼科通いをするが、 休んでいる間にも会社に迷惑をかけている ことで自責の念がわいてくる。 将来への不安がつのっていった。 地元・新潟に帰ってくることも考えた。
「お前はいつまでも、こんな単調な仕事を続けていていいのか」
「お前はもっと創造的な仕事をするべきではないのか」
という内面の囁きに抗しきれず、 19歳で最初に就職したプリント配線の会社は、 わずか1年4ヶ月で退職する。 次は「毎日が変化がある仕事につきたい」という漠然とした願望をもちつつ、 さりとて、次の就職の目処が立っているわけでもなかった。

そのころには、 杉並区・高円寺にアパートを借りていた。 家賃5,500円6畳の汚いアパートで友人のN君と共同生活をしていた。 家賃の相場は 1畳あたり1,000円だったと記憶している。 収入が入ってこなかったので、 経済的に困窮状態が続く。 早く職をさがさなければならない。 次の職探しをしていた時、報知新聞の求人広告欄に“映画の看板要員募集”をみつけた。 この会社の住所は新宿の歌舞伎町となっている。 私はこの求人広告にとびついた。 すぐ履歴書を書いてその会社に面接にいった。 新宿の区役所通りに面したところにその会社はあった。 区役所通りに面して小奇麗な事務所があり、 事務所の奥が工場となっていた。 敷地は角地になっていたので、 面接にのぞむ前に工場の様子を伺いながら角を回ってみる。 建物は大きく奥行きがある。 一部が 3階建てになっているのがわかった。 事務所とは対照的に、 工場の建物はきたなく絵の具で壁が汚れている。 無造作に映画の看板が幾重にも立てかけてある。 工場の外では、絵の具でよごれたGパン姿の人が大きい看板に白いペンキをハケで塗っている。 シンナーの強烈な匂いが鼻をつく。 工場に大きな入口があったのでちょっと覗いてみる。 看板を描いている人が何人か見えた。 工場の一帯は、いわゆる連れ込み旅館街で、 男と女が一夜の快楽を共にする青線地帯と言われていた。



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