映画の時代 -14-



●新宿・歌舞伎町の魔力

私が最初に就職した会社は、 世田谷区祖師谷大蔵というところ。今は閑静な住宅地になっているが、 当時は藤子不二雄や赤塚不二夫のまんがに出てくる 空き地がところどころにある、 言わば東京の田舎だった。 休日になると同僚と小田急線に乗って30分、 新宿に繰り出すのが楽しみだった。 当時は安保闘争真っ只中で、 新宿の駅前には、 全学連の学生がハンドマイクをもって安保反対を声高に叫んでいる。 そうかと思うと、 それに覆い被さるように安保賛成を訴えるアジ演説が、 右翼の宣伝カーのスピーカーから響き渡る。 あちらでもこちらでも、学生・ 市民が入り交じって議論の輪ができている。 この騒然とした駅前の状況と、耳をつんざく大騒音が 新宿という街の強烈な第一印象としてに私の中に残っている。 1960年は新宿、 渋谷、 池袋・・・、 主要な駅周辺の日常的な光景だった。 街を歩いていると決まって、学生や労働者のデモに遭遇する。そして ボリュームいっぱいに軍歌を流しながら右翼の宣伝カーが走る。 右翼のボスであった赤尾 敏が宣伝カーの上から、 演説しているシーンによくお目にかかった。

新潟の田舎からでてきたばかりの 私にとって、東京はすべてがエキサイティングであり、すべてがカルチャーショックだった。 安保反対を訴え、 デモに参加している学生は、私と同じ年代の若者である。 私自身は政治に無関心というわけではなかった。 政府の高圧的なやり方に対して義憤を感じていたので、 心情的には安保反対の方に共感していたものの、 デモに参加するほど政治にのめり込んではいなかった。 それよりも私は、 何でも飲み込んでしまうような新宿という街の、 得体の知れない魔力のようなものに惹きつけられていた。 新宿、中でも歌舞伎町が最も面白かった。 食堂横丁、 バー、 スナック、 パチンコ店、 キャバレー、 クラブ、 ソープランドが競って客引きをし、 魅惑的な映画の看板たちが客を誘う。 学生、 労働者、 サラリーマン、さらに加えてホステス、 オカマ、 チンピラ、 ヤクザのお兄さんまで 多種多様な人種がこの街にうごめいていた。 街を歩いていると、森山加代子の「月影のナポリ」、ザ・ピーナツの「可愛い花」、 守屋 浩の「ありがたや節」の歌が交錯して 流れてくる。当時大ヒットしていた映画、アラン・ドロン主演の「太陽がいっぱい」 の哀調を帯びたトランペットの響きが聞こえてくる。

音楽の世界ではアメリカン・ポップス全盛時代を迎えていた。 「音楽の多様化」の原点とも言える1960年代。若者の心をとらえたのは、 従来の演歌・歌謡曲の枠に収まらないポップス調の音楽だった。グループサウンズ、 フォークなど様々なタイプの曲がヒットチャートに登場し、 戦後育ちの若者に「新しい音楽」として受け入れられていく。 歌舞伎町にジャズ喫茶「ACB」(アシベ)があった。 今でいうライブハウスである。 平尾昌章、ミッキー・カーチス、山下敬一郎、伝説の坂本 九などの人気歌手がこの店に出演すると、 熱狂的なファンの長蛇の列が出来る。 歌舞伎町は、 まさに歓楽街の名をほしいままにしていた。 新宿のごった煮のようなところが、 来る度に好きになっていった。


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