映画の時代 -13-



●60年安保闘争って何?

今の若者に安保闘争の話をしても、 どうにも通じない。 昔の出来事? くらいにしか思われていないようだ。 残念なことである。 これでは日本の歴史が繋がらない。 歴史の風化がここにもある。 そこで、 安保闘争をチョットおさらいしておこう。 正確に言えば「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」のことで、 あまり長ったらしいので「新日米安保条約」さらに略して「安保」と言った。 「安保」という呼称は多分、新聞が使いはじめたものと思われる。
ではなぜ「新」がつくのだろう。 1951年、サンフフランシスコ講和条約と同時に日米間で結ばれた旧安保条約は、 日本とその周辺における米軍の駐留を認めるだけで、 日本を守る義務を明記していない。 言わば一方的にアメリカだけが都合の良い条約だった。 戦勝国・米国に押し付けられた敗戦国・日本の構図がそこにあった。 新安保条約は、 いざという時に日本防衛を義務づけているのが特徴になっていた。

この「新日米安保条約」に対して、 賛成と反対、国民全体を巻き込んだ激しい対立が起こった。 安保に賛成するも者も、 反対するも者も、 国の将来について、 あれ程真剣に考えて行動をした時代は、 後にも先にも私は知らない。 その意味において1960年という年は、戦後日本において、特筆に値する年だったのではないかと私は思う。 結局その年の5月20日未明に国論を二分した安保が衆院で可決、承認された。

ではなぜ、 社会党などが安保に強く反対したのかと言えば、 条文にある「極東」の範囲が明確でない点などから「米国のアジア戦略に組み込まれ、 日本が戦争に巻き込まれる怖れがある」として国会承認を実力で阻止しようとしていた。 このため時の岸首相や自民党は強行採決に踏切ったのである。 この強行採決によって「安保反対」の渦は一気に国会内外から外に広がった。労働組合、 全学連などの学生に加え、 学者・知識人・一般市民まで加わったデモ隊が国会周辺を取り囲んだ。 しかし、安保反対を叫ぶ世論や学生デモ隊が安保問題の本質をどこまで捉えて行動したかは疑問である。 むしろ今にして思えば、エリートの官僚出身で、 開戦時の閣僚、 戦犯ともなった岸 信介の高圧的な姿勢への、 ぬき難い反発、 終戦後10年あまりで高まってきた反米感情などが「安保反対」 という形を借りて一挙に吹き出したというのが正しい見方なのだろうと思う。 国会で安保を承認させた岸信介に代わって首相になった池田勇人は 一転して「低姿勢」を打ち出し、 所得倍増論などで高度経済成長の口火を切ることになる。


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