映画の時代 -12-



●プリント配線

プリント配線という業種は、当時のベンチャービジネスだった。 それまではラジオでもアンプでもテレビでも、 配線はリード線を使って部品の端子をハンダゴテで接合していた。 まさに手作業の細かい作業で、手間のかかる作業である。これを一気に印刷する技術が開発された。
これがプリント配線である。 この技術は画期的なもので、省力化、大量生産が可能となり、コストダウンに貢献。 その後の日本の電気産業を世界に押し上げることになる。 エレクトロニクスの分野は日進月歩で技術革新が進んできたが、中でも1960年代は顕著な進歩がみられる。 真空管からトランジスタに主役が代わり、 私が就職した年である1960年に、ソニーから世界初のトランジスタテレビが発売された。またこの年に、 テレビ各局からカラー本放送が開始され、テレビ受信契約が500万台を突破している。 カラーテレビが発売されたが、当時の価格は17インチ42万円。庶民にとってはまだまだ高値の華であった。

プリント配線の工場に就職したのは、私が19歳の時だった。入社した初日、同時に入社した3人はそれぞれの部署に配属された。 私が配属された部署は工場のラインに乗せる前の行程、印刷するための図面を描く部署で、構成員は私を含め 3人の小さな部署だった。上司から最初に教えてもらったのが製図道具の烏口やコンパスの使い方、 溝引きの使い方だった。最初は奇麗な線が引けなかったが、すぐコツをつかんでいった。 得意先は大手の電気メーカーで、あらゆる電気製品のプリント配線を受注して製造していた。 中でも一番多かったのはコンピュータの基盤だった。 複雑な迷路のような図面を手業で、正確にケント紙に描く仕事だ。 通常、原図のサイズは、完成する製品の4倍の大きさで黒の製図用インクで描く。 今はコンピュータのCADで描いているが、当時はコンピュータの基盤であれ、 全てのプリント配線の原図は手作業で描いていたのである。根気と緻密さ、 指先の器用さが要求される作業だが、この仕事は私の性に合っている仕事でもあった。

入社して最初の3ヶ月間、その工場の2階で寝泊まりをすることになる。 20畳ほどの広さのスペースで、小さな窓が一つあるだけの殺風景な飯場(はんば)のような部屋だった。 私たち3人は、先住人である2人の先輩と共に、仕事を終わってからこの部屋で雑魚寝(ざこね)をすることになる。 いま考えてみれば、劣悪な住環境である。 入社した当初は仕事に慣れることで精一杯だったので、こんな環境でもさしたる不満はなかった。 日曜日になると、新宿の映画館に行って映画を見るのが最大の楽しみだった。 安保阻止のデモが毎日のようにテレビ中継をしていた。この年の6月、 全学連のデモが国会に突入し、東大生の樺 美智子さんが死亡した。あの全学連と機動隊の壮絶な攻防戦の現場中継を、同室の面々と共に私は、 このうす汚い部屋のテレビで固唾をのんで見ていた。1960年代の激動の空気を感じながら。


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